昭和四十七年五月十一日 朝の御理解
X御理解 第三十四節 「ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、           帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の           言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨む           ような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。あり           がたく受けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神           徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷           いのないことぞ。」
 今朝私は、『神の落とし子』という事を頂いた。私はやっぱり、神様の落とし子なんだ。いうなら、神様の生まれかわりなんだと、まあ思うたんですけれどもねえ。
 これは私だけではない、皆さんがその通り。神の落とし子なんです。その自覚からお道の信心ははじめられなければならない。人間の皆んなが神の落とし子である。
 神様の落とし子として生まれたのですから、やはり神様になる事を目指しとした信心をしなければならない。それは神様の落とし子だから、もう神だと、確かに神の性とういうものを頂いて、そしてこの世に私共は生を受けておると思うのですけれどもそれが人間以下とでも申しましょうかね、もう本当に人間の風上にもおけないと、本当に姿形は人間のようにしておるけれども、心はもう畜生にも劣り果てる。心は夜叉のようだといったような事になり果てていって、終わっていく人間がどの位多いかわかりません。人間は人間として、全うしうるというのが少ない。それは人間ではない神様、神様の子として生まれたんだから、神様として育つ事が当たり前。だから誰でも神様になれれる。
 そういう道を教祖金光大神は教えられた。私共のどうして、【  】が性がかわってしまうかと、畜生にも劣り果てたというような、この位の事は人間じゃけん当たり前というその人間で終わってはならない。
 神の落とし子なのですから、やはり神様になる事が願い。金光様の御信心はいわゆる、一億生神を目指すという事、一億という事はあらゆる人間がという意味でしょうねえ。特に信心させて頂く者は生神を目指すという事。
 そこで神の言う通りにする者が少ないとこうおっしゃる。神様のお言葉というか、神様の教えて下さる事を、頂いて帰らなければいけないという事は、それをやはり守もらなければいけない。
 神の言う事は、道で落としてしもうて、そして勝手にし、神を恨むような者がある 如何に神様がおかげを・・・・・自分が頂ききらんのであって、それは神の言う通りにしないからである。と言うようにです、まず神の言う通りにして、やはり神様のいわば働きというか、それを信じさせて貰うところからはじまるわけです。
 しかもそれを有難く頂いて、帰って身につけて参りますと、それは神の一言は千両の金にも替えられん程しの有難いもの、それは土産は舟にも車にも積めぬ程の、神徳があるとおおせられる。
 神徳を頂いて帰るという事、私は神様になるという事はどういう事かと言うと、例えば、牛やら馬やらが神様になる事は出来ません。人間だけが許されたいうならば、特権のようなもの。それは神の落とし子だから、生まれたままのそういう心の状態というものが、もう神である。
 ところが私共は、どうした因果な事かは知らんけれども、もうすぐに我情が出、我欲が出る。その我情我欲にまみれてしまって、神の性はおろか人間の性までもかえていまうような結果になる。そこをここでは、心の内を改める事が第一なりと教えて下さる。神に一心とは迷いのない事ぞと。そこのところを一心不乱、こころを乱さないように神様にお縋りして、改まって、そして神の言う通りにする。
 神様の御教えに合うた生活をする。そこからおかげが受けられるだけではない、みんなが生神になれる。舟にも車にも積めぬ程の神徳がある。私は思います。神という事を、神徳を受けた人の姿だとこう思う。
 ですから神徳を受けさせて頂く為に、お互い信心修行させてもらわなけれはならん 御理解第二節に「先の世までも持っていかれ、子孫までも残るもは神徳じゃ、神徳は信心すれば誰でも受ける事が出来る。みてるという事がない」とあります。
 信心すれば誰でも神徳を受ける事が出来る。最近、毎日のように頂いております、信心してというても、キリスト教の信心をしては神様にはなれない。仏教を信心しては神様にはなれない。
 やはりどこまでも、教祖金光大神のお取次を頂いて、天地金乃神様の信心でないと神徳は受けられないという事は、最近私が毎日申しております通りですからわかられると思うのです。
 何故受けられないかと、お釈迦様の教えられた事は、どこまてもお釈迦様の、いうならば、深い考えの中から生まれた宗教だからです。
 キリスト教の場合は、いわゆる大霊能者、だから奇跡は表す事は出来ても神様になる道じゃない。いわばお釈迦様の教えられる事を身につけていけば、自分だけは助かったような気がするだけなんです。助かってはおらん。いわゆる善し悪しを捨てて確かに善し悪しを捨ててしまえる、そういう達観、悟りじゃないです。ですから神にはなれない。教祖金光大神が天地金乃神様より受けられたのは、只、生神になる道である。
 これは研究すれば、研究する程おもしろいですねえ。成程、只人間は溺れる者、藁をも掴むという心理状態、それは誰にでもある。だから南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏を言うとれば、この世では仕方がないけれども、あの世では極楽に行けるぞと言うただけでも飛びついてしまう。
 ちょっと、奇跡を見せられるともうそれに飛びついてしまう。いわゆる根本を間違えた成程、教祖金光大神を天地金乃神様が本当に神の恩人とおっしゃったはずだと思うです。そこのところを皆さんには何日でも聞いて頂いているわけですけどね。
 それで成程、私共がいわば、神の落とし子としての自覚というのもが、出来て参りました。そしてやはり神になるところの精進という事、それを教祖は容易う教えられている。その容易う教えられている教えを、私共は道に落としてしもうて、自分勝手にするから、おかげにならんと、はっきり断言しておられる。おかげを受けながら神になる道を進めさせて貰う。為にはやはりその事も、容易う出来るように段々出来る事は、心の内を改める事が第一なりという事を、いろいろな角度から、いろいろにそれが出来るような修行、心を改めていくところの稽古をさせて頂く。
 というて金光様の御信心頂いておる信心者がです、みんな神になれておるかというとそうではない。信心すれば、誰でも神徳が受けられるとおっしゃるけれども、神徳を受けという事は、神様になる事だと、今日私は申しておりますがね。
 信心をしておるけれども、いわば神徳は受けてないと、結局おかげを受けるというところまではいっておるけれども、千両の金にも替えられぬ有難く受けて帰れば、土産は舟にも車にも積めぬ程の神徳があるというところを頂いていない。
 私共ではやはり神様になろうは思わなかった。やはりおかげを頂きたいばかりであった。けれどもおかげを頂きたいばかりの信心が、いよいよ燃えてきた。それから神の言う通りにするという信心が出来てきた。
 これと不思議に神のいう通りにする者は少ないとおっしゃるが、神のいう通りにさせて頂くようになったら、確かに、有難くなってきた。どこから湧いてくるかわからん信心の喜びに段々浸れる時間が多くなってきた。
 ですからもう、確かに容易いですね。おかげを頂く為にもやはり神のいう通りにしなければいけない。神の言う通りにさせて頂きよったら、心の中に喜びが湧いてくるようになってきた。
 神の言う通りの中には、さあ本心の玉を研け、日々の改まりが第一というような事を、あらゆる角度から、誰にでも出来るように教えてくださる。だからそれを守らなければ有難いものになってこない。真に有難いという、そういう心が段々多くなっていく。ははあ、御神徳というものは、こういうものであろうかという事になる。
そして、この調子でいきゃぁ、私も神様になれるぞというようなものが出来てきた。 確かに、だからもう、素直に素直に神のいう通りにするという事がやっぱ、一番大事である。その為にはやはり、おかげを頂きたいというところからされだして頂いても、信心が段々燃えてこなければならん。
 昨日私がお風呂の中で、本当に金光様の御信心のいよいよ素晴らしい事、最近はお釈迦様やら、キリスト様の事を、世界の大宗教をいうなら、相手どってのお話なんです。そしてどんなに極めたところで、キリスト教によって神様になる事は出来ない。 仏教によって神様になる事は出来ない。そういうような事を思わせて頂いとったら歌の文句で「情熱に燃えた瞳がわかるでしょう」と。おかげを頂きたい。一生懸命お参りをする。お話を頂く。成程と合点がいく、その事を行じく。いわゆるもう、いよいよ心が燃えてくる。だから燃えてくるてところまでは、あらゆる宗教は同じなんです。それこそぼうけたようになって、一生懸命打ち込む。宗祖、教祖というような方達は、そういう意味でやはり燃えなさったわけです。「口づけだけではものたりぬ、力の限り」という事になる。ところが、そこからが違うてくるのである。燃えてくる口づけだけではものたりない。それから抱擁。それがです例えば、天地を対照としたのもでなからなければね、いかに抱擁かしたところでです、よいものが生まれてくるはずがない。そこんところまで行きながらです、交流しようにも交流しようがない。 そこで、いわゆる「善し悪しを捨てる、起き上がりこぼしかな」という、そういうものを全部あきらめたり捨てる事の為の精進。それを自慰的なものだと私は昨日のお月次祭で申しました。
 自分で自分を慰める事の味わいだけしか頂けんのが他の宗教という事です。これは今の二つの宗教をいうならそのどちらかに属しておるです。
 お釈迦様のいうなら、思索の中から生まれた宗教、それを超哲学とも言う、だからお釈迦様は宗教家というより哲学者だとこう思う。
 そういうたとえば生き方からでもです、そんなら燃えてくる、確かに口先だけでは物足りない、けれどもどうにも交流のしようがない。相手がないから、相手が違うから。けれども燃えてくとるものですから、結局自分で自分を慰めなければ仕方がない だから自分で自分を慰めるだけでよいものが生まれるはずがないでしょうが。だから自分はぎりぎりのところまでいって、そんなら御利益を受けるといったような事やらは雑宗であるとか、それは低級だというふうになってしまう。
 受けられるはずがない相手がない。けれどもそこまではいける自分で自分を慰めるところまではいける。
 そんなら例えば、不思議な力を持ってるなら、その霊能者というかねえ、只、奇跡を見せる事は出来る。奇跡にあずかる事も出来る、その信心をすれば。例えば死人が蘇る事も、出来られたんですね、キリストもそれが段々、千年たち又月日がたつにしたがって最近では、そういう奇跡的な、四,五百年位前まではザビエルの片腕の奇跡といったものもあったんですけれども、そういうようなものは現在のキリスト教からは見る事が出来なくなってしまった程しに、もういうならば枯れ果てたものになっておるわけです。只、その奇跡的なおかげを受けるという宗教は沢山ある。それが例えば中心が霊能者であるならばです、やはり病気が治ったり、災難よけの事は出来るおかげは受けられるけれども、神様になる道ではない。
 だから御利益を受けて、有難いと思うておる宗教と、御利益を受けられないても、自分で自分の心から、それこそ真理の追求とでも申しましょうか。
 お釈迦様がなされたように、又それに続いた仏教者がその生き方を真似したように達磨さんが七年間も壁に向かって座られたとか、お釈迦様が菩提樹の木の下で座ったきりで、それまでは神ありとして、それこそ八百万の神々の研究をなさったり、信心をなさったけれども、自分の心の中にある大きな悩みというものは解けなかった。
 そこで自分一人が菩提樹の下に座って、自分が心を開かれた。いうなら一切を諦観諦め、いうならば自分で自分の心を救えるというか、自分で自分を慰めるところまでで到達された。有難いという事はだから同じ事。
 けれども、それでは生み出されない証拠に御利益が伴うていない。奥さんでも子供さんでも、ちりぢりばらばら、大城までもなくなしてしまっておられる。
 自分だけは助かる。だからそういう道を行じたら、自分自身もやはり隠匿の生活に入らなければならない。いうならば、山にこもらなければならない。本当のその真髄を極めようとするなら。
 ところが教祖金光大神の道はそうじゃない。家内を子供を擁しながら、親をみながら、その難儀の中から神の言う通りにという生き方がある。
 そこからです、はじめは成程、私の場合でもおかげを頂きたいばっかりに神様の教え、言うて下さる事をです、それこそ泣く泣くでも、右とおっしゃれば右、左とおっしゃれば左という生き方になっていったら、おかげもだけれども、自分の心の中に有難いものが生まれてきた。ははあ、これがお徳であったろうかと思う。
 しかもその有難いと思う時間が段々多くなって、ははあ、この調子でいきゃぁ私も生神様になれるぞというめどがつく。しかもその有難いものをもって、あの世に行くという事も出来れば、この世に残しておく事も出来るとおっしゃる事が、これは嘘ではないなと本当だなと確信が出来る。
 金光様の御信心ちゃそんなもの。だからおかげからはじまるけれども、そうして、そんなら段々燃えてくる。そして、いわゆる神様との交流がはじまるようになる。
 そこからよいものが生まれないはずはない。だから、成程、千両の金にも替えられないものが生まれてくる。ですから、どうでもやはり、神の言う事を皆帰ってから、自分のよいようにするのでおかげはなしと。如何に御教えを本気で、しかもそれがどういう事かというとですねえ、これは私が通らせて頂いて、私なりに思う事はです、もう、例えば、神に一心とは迷いのない事ぞという一心、この一心不乱の心が出てくるなら、もう教祖さまのおっしゃる事は容易いです。
 例えば、キリスト教でいう十戒とか、仏教でいう五戒とかとてもとても、人間では出来そうもないような事を、こうしなければならん、こうあらなければならないというような事がない。
 もう、本当にそれぞれの実生活の上に於いてです、家庭生活を営みながら、只実意丁寧神信心の一心をさえもっていけば教えておられる全ての、例えばここで、御神戒とありますけれども、御神戒そのものの頂き方がです、みんながその気になれば出来る事ばあっかりです。難しいという事がない。火の中に飛び込めという事がない。
 これは食べちゃならん、これは飲んじゃならんと。こうしてはならんという事が第一ない。ですから何と言うてもやはり一心発起しなければならない。一心とは迷いのない事。もう、本気で教祖金光大神の教えられるいわゆる金光大神のお弟子にならせて貰うというか、金光教のいわば行者にならなければならない。
 もうそれは山にこもらなければならないか、教会に上らなければならないかというと決してない、各々のお百姓する者はお百姓しながら、商売する者はと商売しながらしかもそれを行じていっておると、そんならおかげが受けられるだけではない心の中に、これは私の体験から言うとおかげ頂きたいばっかりに神様のおっしゃる事を守らせて頂いておったら、おかげもさることながら、自分の心の中に有難いなあと思う事が開けてきた。どこから湧いてくるかわからん程しの有難いである。
 これは私も理屈で説明出来ないその有難いという心の前にはもう暑いも感じなければ寒いも感じない程しのもの。そのような信心生活に入らせて頂くうちにいつの間にか我情がなくなり我欲がなくなり、それこそ三代金光様じゃないけれども、思う事がなくなり、只、親様がおっしゃられた事を行じ守られただけである。
 それはなるほど、途中に於いては、それこそ泣く泣く辛抱したとおっしゃるようなところもあるけれども、一心発起させて頂いていくならば、又有難く頂いていけれる 思う事もなくなり欲しいものもなくなりと、そこに只、有難とうて有難とうてという気持ちが開けておられる。
 信心すれば誰でも受ける事が出来る、それは神徳である。ところがそんなら、金光様の信心する者はみんな受けとるかというと、受けてないのは、それは神の言う通りにする者が少ない。神の言う通りにしないから受けられぬ。
 だから神様のいう通りにせずに、只,おかげを受けておるというのは、そんなら信心じゃない。お徳の受けられない信心は信心じゃない。信心すれば誰でも受けられるとおっしゃる。誰でも受けられる信心でなからなければならない。
 それは難しい事をおっしゃってるわけではない。難しい理屈じゃない。只、私がいう通りにしなさいと、こういうわけなのである。そんなら、教祖のとおりにという事は難しい事かというと、難しい事ではなくて、それが身についてくると、そうしなければ前には進まれない。それが実意丁寧神信心なのだ。
 実意丁寧をはずされなくなってくる。前には進まれなくなってくる。又、そうしなければ馬鹿らしゅうなってくる。そこから心の中に頂けるのが有難いというもの。
 神様とはいわゆる御神徳を受ける事。御神徳とは、私共の心の中にいつも有難いと感じれるものが内容である。しかもです、暑いも寒いも感じない程しの有難いというのですから、見るもの聞くもの全てが有難いという事になってくる。
 以前の私なら、もうあげなもん見よったら腹が立ちよった。あげな事を聞きらったら、それこそイライラしよった。それどころじゃない。それを見れば見る程、聞けば聞く程有難とうなってくる。そういう心はもう理屈じゃない。
 本気で素直に行じていくところの生活、教祖金光大神が教えてくれた事を行じていく生活からしか生まれてこない。そして十年たち、二十年たちしてわからせて頂く事はです、成程神の一言は金には替えられぬ。有難く頂いて帰れば、土産は舟にも車にも積めぬ程の神徳がある事を段々体験してくるようになる。
 金光様の信心は心が燃えてこなければ出来ません。やはり燃えるところから、それこそいわば欲も得もなくなる。それを金光様の御信心ではです、それを最後のところまで持ちこんでいけるのが金光様の御信心。それは天地金乃神様だからなのです。
 けれども、燃えてそこまでは行けるけれども、交流は出来ない。それが私は他宗教だと思う。いわゆる達観というところまでは、難行苦行すれば出来るだろう。けれども、妻を捨てなければならない。子供を捨てなければならない。それこそ、人間離れしたところの生活に入らなければならない。
 人間らしい生き方をさせて頂くならば、しかもその人間がです、成程持って生まれてきた、いや、神の落とし子としての値打ちというものが発揮された。神として生を受け、そして神として祀られる信心。それが私は金光教の信心だと思う。
 だから金光様を拝みよりますというだけではいけないという事。やはり少ない方の部類にならにゃいかん。神の言う通りにする者は少ないとおっしゃる。
 いよいよ神様の御教え、おかげを頂くという事に於いても神の言う通りに。それを具体的に申しますとね、神の言う通りにしてかえって困った、難儀な事になってくる場合もあるのです。だから楽しいのです。そういう起伏がある。そこをだから一心と定めておかなければ出来ない。そこに思いもかけない、夢にも思わなかったという展開があるのです。
 ですから簡単にいうと、簡単なごたるけれども、実際取り組んでみるとです、けれどもその頃はもう、燃えておる、だからそんな事はもう問題じゃなくなってくる。
 昨日お風呂を頂いてから、泉水のところに腰かけとったら、もう椅子に何匹でも青いとかついとるとですもん。私の大嫌いなものがもう随分出てきた。それで手にとって払う事も出来んから椅子のまま泉水の上に持って行ってからゆさぶったら、泉水の中に落ちるわけです。水の中に飛び込みましたからね、向こうの岸に泳ぎつこうとして泳いで行よったら、鯉がパ-ッと追いかけて行ってね、それを食べてしまいました 私はそれを見ながら思うた。鯉のお知らせといやぁ、お徳の事じゃが、もうお徳を頂くとです、いわば恐いものはなくなってくる。それまでも食べてしまう。
 もう本当に困った事もなければ恐い事もない。困ったと思う事は私共の心の辛いであった。恐いと思うておったのは本当に神様が度胸を作らして下さろうとする働きであった。もう、神愛でないものは一つもない。みんなが神愛である。その自分の一番恐いものでもパクッと食べてしまい、そしてかえって自分の血肉にしていくというのですから。
 もう、そこになってくると凄まじいです、徳の働きというのは。もういよいよ神様になっていく事。神様はいうなら神格化していく自分が有難うなり、そういう事はいつもかつも出来る事でありません。
 お互いが本気で難儀を感ずる時、本気で神様にこれは人間の知恵、力ではどうにも出来ないとわからせて頂いた時、一心発起が出来る。
 そして、本気で改まる事の出来なかったところに改まる事が出来るのもそういう難儀に直面した時。そして、それがいよいよ神様になるいうならば、チャンスに恵まれておったという事になる。その事のおかげでとお礼が言えれるようになる。
 そこんところのおかげを皆さんが頂いてもらわなければならない。それを他宗派、他宗教に縋るとするか、成程燃えればあるところまでは出来ましょう。自分で自分を慰めるところまで出来ましょう。けれどもその次によいのもが生まれません。生まれるところまでいきません。
 生神とはここに神が生まれるという事であってと、神様が誕生なさらない。生神とはここに神が生まれるという事であって、いわゆる生神を目指さして頂くところの信心。いよいよ楽しい、いよいよ有難く出来る為にはどうしても、ひとつ一心発起してやはり燃えなければ出来る事ではない。もう寒いところにほうに出されると、ガタガタ震うてしまう。生まれておる時なら、その寒さも感じん程しのおかげが受けられるのですから、そういうおかげを頂きたい。
 舟にも車にも積めぬ程の神徳を頂いて帰る為には、神の一言は千両の金にも替えられんとおっしゃるのですから、それを本気で守らせて貰い頂かせて貰う信心が必要という事になりますね。
     どうぞ。